(この記事では、ゲイが自虐的に「ホモ」と言い合う理由を考えています)
どうも、みんなすばるです。
つい先日、質問箱でこんな質問をいただきました。
(質問ありがとうございます!!)
「ホモ」という単語は、歴史的には侮蔑語として使われてきました。しかし、それにも関わらず、「ホモ」と言い合う当事者は(年代関係なく)多いです。
これは確かに少し奇妙かもしれませんね……!
そこで今回は、「ゲイが「ホモ」と言い合う本当の理由」をご紹介します!
(※ぼくはゲイ代表ではないので、あくまでも当事者の1人としての考察です)
①「ゲイ」よりも「ホモ」のほうが親しみやすいから
「ゲイ」よりも「ホモ」のほうが、なぜか親しみやすさを感じます(当事者としては)。
どうしてなのでしょう?
それは、「ゲイ」よりも「ホモ」の方が語感的に優しそうだからです(笑)
……と、冗談(?)はさておき。
ひとつの理由として、「ホモ」のほうが”政治色”が薄いから、親しみやすいのかもしれません。
ここで、「ホモ」のかずとさんのブログ『うちの旦那はオネエさま』にあった記事「吾輩はホモである、ゲイではない」を引用してみます。
大いに参考になるので、すこし長いですがぜひお読みください。
僕はホモであり、ゲイではない。
ま、このブログを書きだした頃はゲイだと思ってた。
けど、今はゲイを卒業した。
ホモである。
ゲイとホモって何が違うかと言えば、
意識という点で大いに違うのだ、と最近は思う。
(・・・)
ホモって基本的に自分は自分だし、
他人は他人なんですな。
だから、余計な干渉をすることもない。
友達が何の仕事をやってるかも知らないし、
本名も知らない。
社会に対して(少なくとも自分がホモであることについて)
特に不満をもっているわけでもない。
(・・・)
それこそマスコミに出てくる
自称「ゲイ」の男性同性愛者なんて、
「苦しい」だの「死にたかった」だの連呼してますわな。
けど、自称「ホモ」や「オネエ」の方々は、
基本的にみんな陽気で明るく活発です。
自称「ゲイ」の方は、自分も含めて、
「こうしなければならない」
「ああしなければならない」
と色々難く考えてしまう傾向があるように思う。
カミングアウトや同性婚を考えるのがゲイ。
考えないのがホモとも言える。
(・・・)
(太字は引用者、「吾輩はホモである、ゲイではない」より)
つまり、「ゲイ」と「ホモ」の間には、次のような違いがあると言います。
「ゲイ」 | 「ホモ」 | |
ある | 社会に対する不満 | なし |
苦しんでいる | 自分のセクシュアリティに関する気持ち/性格 | 陽気・活発 |
考える | 同性婚・カミングアウトについて | 考えない |
この分析、当事者のぼくの感覚とも合致するように思います。
要するに、
- 「ゲイ」:社会問題的なニュアンス(≒政治色)が濃い
- 「ホモ」:社会問題的なニュアンスが薄い
というニュアンスの違いがあるのです。
このように、「政治色」を嫌うゲイの人達が、より親しみやすい「ホモ」を使っている、という事情があるのかもしれません。(あくまで、ぼくの推理ですが)
※補足(読み飛ばしてOK!)
なお、調べた感じだと「『ホモ』の侮蔑性を嫌って、男性同性愛者は『ゲイ』と名乗るようになった」というストーリーは「それっぽいけど、検証されていない」という印象です。
少なくとも、『LGBTを読みとく』にはそのような記述が(意図的に?)書かれていません。ウィキペディアやネット上の信頼できそうなソースを見ても、「同性愛者が、『ゲイ』を肯定的に使うようになった」くらいの記述にとどまります。「『ゲイ』を使うようになったのは、『ホモ』の侮蔑的なニュアンスを嫌ったから」という動機レベルの記述は見当たりません。
(もし見つけたら教えてくださいm(__)m)
また、本当にわずかですが、以下のようなスタンスの違いが「ゲイ」と「ホモ」にあります(これはぼくのガバガバな主観ですが)。
「ゲイ」 | 「ホモ」 | |
おおかた賛成派 | 同性婚 | 懐疑派 |
感じる | 「LGBT」との連帯 | 距離を置く |
それほど感じない | 男性同性愛者での連帯 | 感じる |
抵抗感少ない? | 「レインボー」へのスタンス | 抵抗感あり |
正常なもの | 同性愛に対するスタンス | 異常なもの |
少ない | 二丁目に行く頻度 | 多い |
リベラル | 政治思想 | 保守派/無関心 |
②個人としての誇りを表現したいから
「あえて」侮蔑語を名乗ることで得られるものは、なんでしょうか?
それは、「じぶんは侮蔑的ニュアンスを気にしない/むしろ良いニュアンスを感じる、誇りを持った人間だ」という逆説的な表現です。
ネガティブなニュアンスをあえて引き受けて、それをポジティブなものに塗り替えるわけですね。
これは、
- 太っている人が、「まあ、私/俺はデブだけど、それがどうかした?(笑)」
- 「ブサイク」と言われがちな人が、「私/俺はブサイクだけど、何?(笑)」
- 黒人が「ニガー(Nigger、極めて侮蔑的な意味で使われてきた単語)」と自称する
などと同じパターンかもしれません。
※補足(読み飛ばしてOK!)
このような「ネガティブな意味で使われていた単語をあえて引き受けて、それを自らのものにしてしまう」やり方は、学術的には「再領有(reappropriation/reclamation)」と呼ぶみたいです。
かつては否定的に使われた「オカマ」も、今や当事者のゲイ男性等が「私たち、カマホモだから〜〜〜」と「再領有」していますね。
とはいえ、当事者じゃない人が当事者に対して「オカマ」と言うのはちょっぴり危ういので、気をつけたほうが良さそうですが……(デブと自称している人に、デブと他人は言わないのと同様。
③仲間意識を表現したいから
それでは、どうしてゲイの人は「ホモ」と言い合うのでしょうか?
それは「仲間意識を表現したいから」だと思います。
①と②で紹介したように、「ホモ」は次のようなニュアンスを持っていました。
- 「政治色」の薄さ・気楽さ
- 「男が好きである」ことのポジティブな引き受け
このニュアンスを他のゲイの人も共有している、ということを確認・再生産するために、「ホモ」と言い合っているのではないでしょうか?(もちろん、無意識的に、でしょうが)
※補足(読み飛ばしてOK!)
このように「仲間意識のために侮蔑語(だった)単語を使う」という例は珍しくありません。
たとえば、黒人が主人公の映画『ムーンライト』では、実に40回以上「nigga(侮蔑語のniggerが転じたもの)」と黒人同士が言い合っています(ちなみに、とってもおすすめの映画です)。
ただし大事なのは、「ホモ」も「nigga」も、「所属メンバー同士が使う」という条件のもとで使用されている、ということです。
黒人が「nigga」と”白人”に言われれば、侮蔑されたと感じるはずです。同様に、ゲイ男性がストレート男性に「ホモ」や「カマ野郎」などと言われたら、「侮辱された」と感じる可能性は高いででしょう(必ずしもそうではないにせよ)。
まとめ
長くなりましたが、ゲイ同士で「ホモ」と言い合う理由は次のようにまとめられます。
- 「ゲイ」よりも「ホモ」のほうが親しみやすいから
- 個人としての誇りを表現したいから
- 仲間意識を表現したいから
そしてこれらは、「ゲイ」と「ホモ」のニュアンスの違いから生まれてくるように思われます。
(おおざっぱに言えば、
- 「ゲイ」は「個人主義的、社会/政治的なニュアンスをもつ」
- 「ホモ」は「コミュニティ的、”非政治的”なニュアンスをもつ」
とまとめられるかも)
まあ、そんなわけで、質問箱に対して答えが提示できていたのなら、大変幸いです!!
以上、みんなすばるでした。
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完全な蛇足:「レズ」と「こっち」
「レズ」の言い合い
以上の「ゲイ/ホモ」議論は、レズビアンの人たちが「レズ」と言い合うことにも当てはまる気がします。
「こっち」と「ホモ」
『LGBTを読みとく』の著者でもある森山至貴先生の『「ゲイコミュニティ」の社会学』では、「こっち」という単語の包摂力が考察されています。
それにならって、「ホモ」という自称・他称をクィア・スタディーズ的な視座で分析するとどうなるのかは気になるところです。
“非政治的”な装いをもっている点で、「ホモ」は「ゲイ」よりも包摂的かもしれません。ただ、「こっち」はゲイ男性のみならずバイセクシュアル・パンセクシュアル等々を含められる一方で、「ホモ」はどうしてもゲイ男性しか指せない限界はありますが。
はい、蛇足でした。