これは断じてステマではないのだが(大嘘)、一二ヶ月前に防水のイヤホンを買った。Bluetooth接続の、いわゆる完全ワイヤレスのものだ。
防水性能としては、それをつけてシャワーを浴びても問題がないレベルとのこと。
せっかくなので、試しにやってみた。
防水イヤホンをシャワーに持ち込んでみた結果
この試みについては、良いニュースと悪いニュースがある。
良いニュース
まず良いニュースのほうだが、それは「シャワー中の音さえも意のままになる」という点だ。
ある意味当たり前だが、少なくとも僕にとってはちょっとした革命。風呂場の「トリノコシティ」(リメイク版)は、僕の耳にとっては新鮮だった。
以上! 終わり! 閉廷!
悪いニュース
さて、悪いニュースのほうに移る。
それは、「物事が思い通りになりすぎる」という点だ(これは、良いニュースと表裏一体のことではある)。
これまで、シャワーの時間はひとつの不可侵地帯だった。
たとえその日が渋谷の道路にこびりついたガム以下のものだったとしても、服を脱ぎ・風呂場にあがり・蛇口をひねってシャワーを出す、ということをすれば、少なくともその時間だけは、渋谷のガムのような一日から救われていた。
そして「僕は今日、疲れたなあ」とか「明日をもっとよくするには、何ができるだろう」とか「あの人は今、何をしているだろう」とか、そういったことを漠然と考えられた。
けれど、日常の音楽をシャワーに持ち込めるとなると、話は変わる。シャワーは刹那的な逃避から陳腐な日常の一こまに引きずり落とされるのだ。そして僕は、僕自身に向き合う時間を削ることになる。
自分に向き合わないという麻薬
自分に向き合わない、というのは一種の麻薬だと思う。
僕はおそらく内向性が強いから人一倍じぶんに向き合うことが多いのだけれど、それでも向き合わない時間のほうが楽だったりする(「楽しい」というよりも、ただ惰性的に楽)。だって、自分の内面とは対話せずにそのほかのことにアタマを使ったほうが、思考コストは少ないから。そうして思考コストのかからないほうにずるずると引きずられていく。
これは、旧時代的な感覚だったりするのかもしれない。近い将来、「自分」と「他人」という境界線など意識しない世界が到来するのかもしれない。そしてそのときには、自分に向き合うなどという時間は不毛か危険なものとされて、思考コストの軽減につとめない人はおかしな人・珍しい人になっていくのかもしれない。それはそれで良いのかもしれない(ここまで書いて気づいたけど、この設定どこかで観たなと思ったら『すばらしき新世界』だったわ。あれ、ストーリーは退屈だったけど設定は面白かった)。
結論。
好きな人とシャワーに入りたい!(は?)