先日の「アマゾンプライムデー」でSHOUDOU・GAI (´・ω・`)
みんなすばるです。
この前、こんなツイートをしました。
「偏見はありませんが」よりも「偏見かもしれませんが」のほうが、よほど信頼できる。
「偏見はありませんが」の真意は「敵意はありませんが」だけど、実際に意味しているところが「(私はじぶんの無意識の)偏見に(意識的では)ありませんが」でしかないケースがあまりにも多い。
— みんなすばる@ゲイ東大生ブロガー (@c_hanger_itr) July 14, 2018
「また鼻息荒くして何か言ってる」と思われるでしょう。
たしかに鼻息は荒かったでしょうが、ぼくは真面目でした。
というわけで今回は、
「偏見はありませんが……」よりも「偏見かもしれませんが……」と言おうぜ、って話です。
「偏見はありませんが」と言う奴、だいたい偏見もってる説
「偏見はありませんが……」とか「LGBTに嫌悪感はありませんが……」という書き出しを見た瞬間、ぼくは「来るぞ……!! 来るぞ……!」と身構えます。
だって、読んでいくとほぼ必ず偏見や誤解が含まれているんですもん。
ほんとうに面白いくらいに。(なおこれも偏見の模様)
たとえば、一時期炎上していた記事、
私が同性婚に反対する理由: 人事を尽くして天命に遊ぶ!日野智貴の雑感
を見てみましょう。
日野さんは最初の方でこう言います。
「(・・・)私は決して感情的にLGBTへの嫌悪感を持っているから同性婚に反対している、というわけではない。明確な論理をもって同性婚容認という暴挙に反対しているのである。」
この文章を見た瞬間、偏見ハンター()みんなすばるは
「あっ(察し)、これは偏見が続くパターンや」
と思いました。
案の定、日野さんは後半こう言っています(下線は引用者):
どうして、人間の本能に反する同性婚を憲法を変えてまで認める必要があるのか、と。(・・・)
というのは、
人間は言うまでもなく、有性生殖で繁殖する多細胞生物であり(・・・)
私は、決して、LGBTの人たちを差別する意図がある訳ではない。かつては日本若者党で私は活動していたが、若者党の基本政策の中に「LGBT差別の撤廃」も存在しており、私も「
同性愛者を含む精神障碍者への差別をなくすべき」と訴えていた。(・・・)
下線を引いたところは、「偏見だなあ」とぼくが感じたところです。
(※なぜこれらが偏見なのかは、次のカッコ内でネチネチ言います。読み飛ばしても問題ありません)
(①、「人間の本能に反する同性婚」について。なぜか日野さんはここで「同性愛は人間の本能ではない」と決めつけている。しかし、異性愛者が本能的に(?)異性愛であるように、同性愛者等も本能的に同性愛等を指向する。したがって、「同性愛は人間の本能ではない」という決めつけは偏見になる)
(②、「人間は言うまでもなく、有性生殖で繁殖する多細胞生物」について。これは事実としては正しいが、問題なのは「すべての人間が、この有性生殖にコミットするものだ」という考えがにじみ出ている点だ。これは人間一般に対する偏見といえる。だって不妊症の人だって無精子症の人だっているし、独身でこどもを作りたくないという人もいるのだから。そういう人たちも無視して人間をくくっているあたりが、偏見といえる)
(③、「同性愛者を含む精神障碍者」について。事実レベルでの誤りである。同性愛者は精神障害者じゃないので、これも偏見である)
こんなふうに、「LGBTへの嫌悪感を持っていない」と言いつつも偏見によってへんな方向に善意が向いてしまうのです。
日野さんはたぶん、べつに悪気があるわけじゃないし、日本をよくしようと真剣に志しているんだろうと思います。
それなのに、その善意がひとたび偏見と交わると、(意図しない)攻撃や誤解になってしまう。
これって、悲劇じゃないですか?
偏見について知りたいなら、〇〇を運ぼう
そもそも、偏見はどういうものなのか。じぶんはあるのか、ないのか。
持論ですが、
偏見について知りたいなら、角材を運んでみてください。
もし運んだことがあれば、そのときのことを思い出してください。運んだことがなければ、想像してみてください。
角材を持ったまま振り返ったり移動したりすると、他の人にぼーーんと当たっちゃったりしますよね。
この角材こそ、「偏見」です。
ただ、この偏見という角材は「透明」です。
なので、偏見という角材の長さは、あらかじめには見えません。
他人に角材をぶち当ててはじめてわかったりするのです。
「偏見はありませんが」は、エセ武装解除
偏見ってほんとうに把握しづらいものです。
だから、偏見に無知の状態で「偏見はありませんが」と言うのは、結構危なっかしいことです。
だって、「偏見はありませんが」と言われたら相手も信頼しちゃうじゃないですか。
「そっか、この人は角材=偏見を持っていないんだ」「武装解除しているんだ」と油断してしまうわけです。
ところが、気づかぬうちにじぶんの透明な角材を相手にどーーん!と盛大に食らわせてしまうのです。
まさにエセ武装解除、というわけです。
「こちらは武装解除しているよ」と言ってるのに、その実「偏見」という武装を解除していないのです。
偏見は誰にでもある
でも、偏見という角材は、人類全員がもっています。
当然、ゲイのぼくだって偏見をもっています。
たとえば「すべての人には母と父がいる」というのは偏見でしょう。
シングルマザーの友達に「父の存在を当たり前だとする会話」をふれば、相手は困ってしまいますよね。最悪、傷つけてしまうかもしれません。
ぼくはこの偏見のせいで何度か失礼なことをしました。
そう、誰だって偏見は持っているのです。そして誰も偏見からは逃れられません。
「偏見はある」と反省するほうが、たいせつ
偏見をもつことは誰にも責められません。
むしろ、「誰でも偏見はもっているのだ」と考えることからスタートするべきなのです。
それに、時期や場所によって「間違い」の線引きも変わります。そうするといよいよ「最初から偏見で人を傷つけない優等生」なんてありえません。
だからこそ、ぼくたちは改めて「じぶんの偏見で相手を傷つけるかもしれない」という反省が必要なのです。
「偏見はありませんが……」よりも、〇〇と言おう
「偏見はありませんが……」とか言って誰かを傷つけてしまうよりも、
- 「これは偏見ぶくみかもしれませんが……」
- 「まだLGBTへの抵抗感は拭えなくて……」
と先に開き直ったほうがいいと思います。
これの良いところは、
- エセ武装解除にならない(相手を傷つけるリスクを減らせる)
- 「それは偏見ですよ」と指摘されるスペースを作れる(何が偏見なのか学べる)
- 敵意がないことを示せる
といったことが挙げられます。
Win-winだと思いませんか?
おわりに
そういうわけで、今後は「偏見かもしれませんが……」「まだLGBTへの抵抗感は拭えなくて……」と開き直るのが吉でしょう。
誰かを傷つけてしまう前に、「じぶんにも偏見はあるんだ」と受け入れて行くことから始めていきましょ。
相手もきっと、わかってくれるはずです。
以上、みんなすばるでした。
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