ゲイ・ジェンダー

「僕はゲイだ」と言うことに抵抗を感じ始めているのだが

最近、じぶんのことを「ゲイだ」と言うことに抵抗を感じ始めている。

もちろん、僕は男の人にのみ性的魅力を感じる。女性には感じない。
つまり僕は「れっきとしたゲイ/ホモ」だ。定義的には。

セクシュアリティを話す段になれば便宜的に「僕はゲイなんですけど、」というふうに言うし、周りから見てもどう考えたって僕はゲイだ。

けれどやっぱり、じぶんのことをゲイだと言いづらくなりつつあるのだ。一周回って。

「僕はゲイだ」に抵抗を感じる理由が知りたい

語感の問題ではない

よく、「ゲイ」よりも「ホモ」のほうが語感が柔らかい感じがして好きだと言う人がいる。

ただ、僕の場合は、「僕、ゲイなんだ」と「僕、ホモなんだ」のどちらも、同じようにモヤモヤする。だから、語感の問題ではない。

内在化したホモフォビアではない

また、いわゆる「内在化したホモフォビア」でもないと思う。
「ホモフォビアはない!」と言い切るのは相当難しいが、自分の実感としては、ホモフォビアからすでに”卒業”したと思う。

もちろん、実感と実態が乖離している可能性もあるのだが……。

じゃあ「僕はゲイだ」と言うことの何に抵抗を感じてるんだよ!!!

知らねえよ!!!!!!!!

僕が知りてえんだ!!!!!!

うーむ。

「四六時中のゲイ」は存在しない問題

「僕はゲイなんだよね」という発言には、「僕は四六時中、トゥエンティーフォーセブンでゲイです」というニュアンスがあるのが嫌なのかも。

つまり、僕の「ゲイ属性/〈男性を好きな男性〉属性」が常に発動しているわけではないのに、まるでそうであるかのように発言するのが嫌なのかも。

もちろん、恋愛とか婚姻制度みたいに、「性」に関わることについて話したり聞いたりしているときは、ゲイ属性が自分のなかで発動しているのはわかる。

でもたとえば、「散歩中・睡眠中・ゲーム中・勉強中にも僕はゲイか?」と訊かれると、うーん、ってなる。

僕は常時ゲイではないのだ。

ジョージ・ゲイって名前みたいでウケるな。

「自分はゲイだ」と実感するとき、しないとき

散歩中・睡眠中・ゲーム中・勉強中の僕は、ゲイじゃない。
恋バナ中・BL鑑賞中・エッチ中の僕は、ゲイだ。

僕は場面ごとにゲイであったり、ゲイじゃなかったりする。

もちろん、「男性として男性を好きになる」というポテンシャルはどんな場面でも持っているだろう。そのポテンシャルを指して「ゲイ」と言っているのなら、まあ納得する。

でも、僕たちが「僕はゲイです」と言うときに発せられるメッセージって、「僕は男性として男性を好きになるポテンシャルを持っている者でござる」ではない気がする。どちらかというと、「僕は常に男性として男性を好きになります」みたいな、永続的・恒常的な状態、すでに発動している状態を発信している気がする。

でも、「常に発動している状態」って、やっぱり「実感」とは違う。

だって、恋バナ中・BL鑑賞中・エッチ中じゃないと、僕は自分がゲイだと「実感」することはないのだから。

「僕はゲイだ」に抵抗を感じる理由

つまり「僕はゲイなんだよね」と言うことに抵抗を感じるのは、こういうことなのだ。

  1. 「僕はゲイなんだ」には、「僕は四六時中ゲイです」というニュアンスがある
  2. しかし実感として、自分は常時ゲイではない。場面によっては、自分がゲイという実感がない
  3. 言葉に込められたニュアンスとじぶんの実感に乖離があり、それが上手く伝えられないから

だからこそ、「僕には彼氏がいた/いる」みたいな「間接カミングアウト」が気楽なのかもしれない。その言葉には、「常時ゲイ」ニュアンスが込められていないから。「行為」のみに着目していて、「常にどういう存在なのか」を確定させないから。

色々ゴタゴタ言ったけど、結局……

この話をスマートにまとめると、「セクシュアリティはそもそもアイデンティティとしては不確かなものだよね」になる(気がする)。

かつては「男と男がエッチする/愛し合う」という行為だけがあったのに、いつの間にか「ホモ/ゲイ」というアイデンティティが存在していて、そこに繰り入れられるのが窮屈、という話なのかもしれない。

テニスをしたからといって、その人がテニスプレイヤーになるわけじゃない。
小説を書いたからといって、小説家になるわけじゃない。

同じように、男性を好きになるからといって、ゲイになるわけじゃない。

……もちろん、アイデンティティを利用しないと同性婚とかの権利関係の話ができないから、使えるものは使うに越したことはないのだけれど(戦略的本質主義)。

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