すこし前、葬式に参列した。友人の親の葬式だった。
無神論者の僕は、葬式に行くべきか?
行くべきだと、僕は今回判断した。
葬式にはたいせつな「社会的機能」があるからだ。
すなわち、故人の関係者(この場合は友人)を大事に思っている、ということを伝える機能だ。
葬式は誰のためにやるもの?
「葬式は死んだ人のためにやるものだ」という観念がある。
でも僕の価値観からすれば逆で、葬式はむしろ生きている人のためにやるものだ。
というのも、僕はアフターライフを信じていない。人間は知覚の束であって、意識の連続体にすぎない。人は死ねば無になる。
したがって、生者のメッセージが故人に届くことはない。葬式を2000回挙げたとしても、故人には何も伝わらない。
けれども、僕たちは葬式をやる。まるで故人に見守られているかのように。
葬式というのは、「死者を経由して」生きている人のためにやっているのだと思う。
葬式は徒労?
故人にメッセージが届くことがないのなら、葬式は徒労だ。
正装に身を包み、髪を黒く染め、数珠をつけ、(作法がいつもよくわからない)お焼香をあげる。
この不便さ(非合理性、非効率性)にいったい何の意味があるのだろう?
しかし、むしろ徒労であるからこそ、徒労をこなすのかもしれない。
不便さ・非合理・非効率の合理性
「意味のないこと」をわざわざやるからこそ、逆にそこに意味が宿る。
もし葬式が「便利」で「ラク」で「時短」だったら、どうだろう?
おそらく参加する人も、挙げる人も減る。
なぜなら、意味を宿すための「無意味さ」が消えてしまうから。
つまり、不便さ(非合理性、非効率性)があるからこそ、重みが出てくる。
不便さの重みが、葬式の社会的機能をつくる
「合理性」とか「効率性」という観点から見れば、たしかに葬式は非合理的だ。
でもだからこそ、葬式には「重み」とか「意味」が宿る。
「(”本当は”意味のない)葬式にわざわざ参加してくれた」というふうに、故人の関係者は参列者に対してありがたく思うだろう。逆に参列者は、故人の関係者に「あなたのことをたいせつに思っています」と示せる。
これはWin-Winの関係だ。
だから、「葬式というのは、死後の世界などという非科学的な幻想を前提した、無意味な営みだ」と結論づけるのは、たらいの水と一緒に赤子を流す愚かな考えなのかもしれない。
まとめ的なサムシング
葬式には顕在的機能だけではなく潜在的機能=社会的機能もあるのだから、やっぱり有意義だ、という何ともつまらない結論に至った。
それでも、葬式で「なんでこんなことをしているんだろう」とむなしくなるのはこの先一生拭えないだろうけれど……。
僕の葬式はどんなのがいいかな……と思い始めたけれど、葬式は僕のためにやるものじゃなかったわ(笑) 生者が好きなように決めてくれればいいや。
(否、僕の希望を実現させることこそが、「生者が好きなように決めること」なのか……?)