ポッドキャストに興味があります。みんなすばるです。
さて、ブログ運営のためにいくつかサイトや本を読んでみたのですが、
その中でよく見るアドバイスがあります。
それは、
- 「断言しろ」
- 「語尾をはっきりさせろ」
- 「『〜〜だと思います』や『〜〜かもしれません』は使うな」
というものです。
でもぼくは、いたずらに断言することに反対なのです。
大学生は、「断言すること」と相容れない
「断言すること」って、
大学生とホンシツ的に相容れないと思うのです。
大学生は学究の徒。
そして「断言すること」は非-学問的。
だから、大学生とは相容れない。
ぼくはそう考えています。
「いや、大学生はモラトリアムにすぎないでしょ」という意見もあるでしょう。
しかし少なくともぼくは、東大に来たからには学究もしたいと思っているわけです。
断言=世界をカンタンにすること
ぼくは一介の学生にすぎませんが、(わずかながらの)勉強や研究から「世界は『断言できないスキマ』に満ちている」と確信しています。
その『断言できないスキマ』を無理やり埋める手口には違和感しかありません。
世界をカンタンにすることの危うさ
「世界を簡単にすること」に、ぼくはアレルギーがあります。
どうしてかというと、「世界を簡単にすること」によってぼくは迫害されてきたからです。
- 「人は、異性を好きになるものだ」
- 「男は、家庭をもつことこそが生きがいだ」
- 「女は、家庭を守ることが役割だ」
この3つの断言だけで、どれくらいの人が簡単にされてしまっていることでしょうか。
いないことにされていることでしょうか。
「断言すること」はつねに、誰か・何かをロードローラーで轢くことのようなものです。
断言と謙虚さ
断言しないことで、ぼくたちは常にじぶんの意見に留保がつけられます。
これを卑怯と呼ぶか、謙虚と呼ぶか、正しさと呼ぶか。
「正しさとは、謙虚かつ卑怯なものである」
とぼくは言いたいです。
おおざっぱに言えば、科学もそういうことじゃないですか。
科学の仮説は、つねに反証可能性に開かれていますよね。
そうでなければ科学でないわけです。
しかし他方で、断言はこの「反証可能性」=科学性を踏み抜いてしまうことが多いのです。
断言による安心感
大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ。
——アドルフ・ヒトラー
断言のもつ「世界を簡単にする力」はとても強いです。
極端なことをいえば、白を黒にすることもできる。
そんなふうに乱暴だからこそ、
「断言したということは、それだけの覚悟で言われたことなのだから、正しいはずだ」
と聞き手は安心してしまうわけです。
「そんなでかいリスクを負っていながら、堂々と間違うはずもない」、と。
そうして断言者自身も、そのうち後ろに退けなくなるのです。
たとえ間違っていても、メンツを守らなきゃいけないから。
誰も正しくないかもしれないのに。
まとめ
以上のように、ぼくは断言することにもっと慎重になるべきだと思っています。
そのほうが、もっと世界はよりよいものになるのかな、と。
まあ、こんなことを言ったところで有害な断言は減らないだろうから、まずはリテラシーを上げるしかないですが……。
はてさて。
以上、みんなすばるでした。
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