カミングアウトに関するこんなツイートを目にした。
親にカムアした時 愛してるし、結婚できないのも構わないと言われた。だけど俺が幸せになれるか分からないから不安だと言ってた。そしてその後俺がいない所でずっと泣いてたのも知ってる。言って俺はスッキリしたけど、今の日本で親にカムアするのはただの自己満なんじゃないかなっても思ってしまった
— かずやんやん (@kazu__yaaaaa) April 7, 2019
要するにこういうことだ。
- 親にゲイだとカミングアウトした
- 親はそれを受け入れてくれた
- しかし、親はツイ主が幸せになれるのかわからず、不安がって泣いていた
- カミングアウトした側はスッキリするけれど、[注:親を悲しませてしまうのであれば]、親へのカミングアウトは自己満足なのではないか
このツイートは50リツイート超・400ファボ超で迎えられた。
賛否両論があったようで、僕自身「カミングアウト=自己満」論が苦手だ。
ゲイが迫られる二択(?)
例のツイートは、おそらく次のような二択を想定している。
- 親にカミングアウトする。
それは「セクを隠す=親を安心させる」ことから降りる行為でもある。 - 親にカミングアウトしない。
それは「セクを隠す=親を安心させる」行為でもある。
例のツイートだけだと上の二択で済むのだが、「カミングアウト=自己満足」論はしばしば次のような図式も付け加わってくる。
- カミングアウトする人は、自分で抱えきれない=心が弱い(=悪)
- カミングアウトしない人は、我慢できる=心が強い(=善)
「親を安心させない」≠ 悪
「正しい自分を知ってもらうこと」よりも「親の安心」を優先したいと思うからこそ、ツイ主さんは先のツイートをしたのだろうと思う。つまり自己犠牲の精神だ。それはそれで尊い。
ただ、「親を安心させない=悪」ではないと思うし、「親を安心させられないのは、自分の心が弱いからだ」と自責するのも変に感じる。だいいち、親の安心のために生きているわけではない。それに、心の弱さを恥じる理由もない。
万人に「たくましく生きなくても良い権利」がある
「”自分の心が弱いから” カミングアウトしないと生きていけない」
こういうふうに自分を恥じるのは、あまり良くない。
少なくとも、自分にフェアではないと思う。
なぜなら、「たくましく生きなくても良い権利」を誰もがもっているはずだから。
(ここで注意してほしいのは、「たくましく生きても良いけれど、それは強制されるべきことではない」という点)
なんか、逞しく生きなくても良い権利を誰しも持ってるはずなのに、セクシュアリティという属性のせいでその権利が剥奪されるのには違和感があるというか、なんというか。
— みんなすばる@リラコ (@minna_subaru) April 10, 2019
ストレート男性とゲイ男性の違い
一般的に、シスジェンダー*・ヘテロセクシュアル**の男性が親に向かって、「俺、女子が好きなんだよね。心配かけるかもしれない。ごめん」と言うわけがない。だって、そこに心配をかける要素がないのだから。
*生まれ/身体の性と性自認が一致している人のこと **異性愛者のこと
つまり、シスヘテロの男性は「カミングアウトしないたくましさ」を背負っていないのだ。それは「たくましく生きなくても良い権利(特権)」だろう。
他方、シスのゲイ男性になった途端に「カミングアウトしないたくましさ」が求められるのは変な話だ。別にゲイだからといって、たくましく生きなくてもいいのに。
カミングアウトを”生み出す”社会が悪い
親も悪くないし、ゲイの自分も悪くない。
けれど、なぜかゲイの人には「たくましく生きなくても良い権利」が与えられていない。
責められるべき/変わるべきは、親でも自分でもない。
「そのような権利を与えない環境」が悪いのだ。
「たくましく生きなくても良い権利」のための義務?
「え、でも権利を要求するなら義務にも応えるべきでは?」
と疑問に思う人もいるだろう。
しかし冷静に考えてみてくれ。
シスヘテロの男性は、「たくましく生きなくても良い権利(特権)」のために何かの義務を負っているだろうか? 答えはノーだ。
だとすれば、やっぱりゲイ男性も「たくましく生きなくても良い権利」を義務なしで保障されるべきだろう(これはゲイ男性に限らないが)。
おわりに
ネット上では次のようにまことしやかに言われている。
インドでは「あなたは他人に迷惑をかけて生きているのだから、他人のことも許してあげなさい」と教わる、と。
僕はこの考え方のほうが、よほど健全な気がするのだ。別に人に頼って生きていいし、人に迷惑をかけても良い(もちろん限度はあるが)。これがまさに、「たくましく生きなくても良い権利」なのではないだろうか?
※「海外ではこう考えているから、日本もこうするべき」と言いたいのではない。
「こういう考え方もあって、そちらのほうが生きやすくない?」と提案しているまでだ。