完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。
——『風の歌を聴け』村上春樹
このブログについて
ゲイ東大生、みんなすばるの運営するブログです。
1人のゲイ東大生の視点から、いろいろなことを書いていきます。
東大生活、ゲイやLGBTのこと、恋愛、社会学、日常で考えたこと、などなど。
コンセプトは「中学生のぼくに、読ませたかったブログ」。
このブログは、誰に向いている?
- 東大志望のゲイ(かもしれない人)
- その他、ゲイの人
- アライの人
- 社会学に興味がある人
- 1人のゲイ東大生が何を考えるか、興味がある人。
ブログへの想い
中学生のぼくに、読ませたい。
中学生の時、ぼくはセクシュアリティで悩みました。
そして、いろんな本やサイトが支えてくれました。
そんな中で、同じセクシュアリティの人がやっているブログがやっぱり一番共感できたり、安心できたりしました。
だからこそ、本ブログのコンセプトは「中学生のぼくに、読ませたかったブログ」。
完全にぼく基準だけれど(笑)どこかで他の人と通じる、って信じてます。
「ついていけない」ゲイの中学生や高校生へ
ぼくの時と比べて、今の中学生・高校生は悩まないで済む環境が整っているかもしれません
(もしくは不幸にも変わっていないかも)。
最近は「LGBTブーム」だったり、SNSもだいぶ普及しましたしね。
でも、そういう環境に恵まれない中高生や、「ついていけない」中高生がいることも考えられるわけです。
そんな「もうひとりのぼく」のような中高生に向けて、今のぼくの考え方などを見せられれば。
……なんて、傲慢ですかね(笑)
東大志望のゲイに、発信したい。
ぼくが高校3年生のときのこと。
進路調査に「東京大学」と書いていた時に、気がかりなことがありました。
「東大に入ったぼくは、楽しい大学生活を送れているのだろうか?」
たとえば、
- 恋人はいるのか
- ゲイの友達はいるのか
- 友達にカミングアウトできているのか
でも、そういう楽しそうな先輩の情報ってなかなか見つからず。
だから、その穴を埋めたいと思い、ブログをはじめました。
(ちなみに、充実した生活を送れていると思ってます(2018/08/04現在))
追記修正2018/08/11:
「現在進行系で更新しているゲイ東大生のブログがなかなか見当たらない」と書いていましたが、見当たりました!!
たつやさんの「誠実な彼氏を探す旅│東大ゲイの放浪日記」
ゲイという存在を、もっと身近に。
「東大にもゲイの学生はいるんだー。しかも、考え方とかは自分に似ているかも」
そんなふうに身近に思ってもらえることは、すごく大事だと思うんです。
だって、同性愛への嫌悪感って「ゲイ=知らない存在」という恐怖から生まれている部分もあるはずなので。
そこからセクシュアル・マイノリティ全般とともに歩む人(「アライ」)が出てくればいいなあ、なーんて。
ストレート・アライとは、
人権の平等化や男女同権およびLGBTの社会運動の支援や、ホモフォビアへの異議を投げかける異性愛の人々を指す言葉。LGBTなどの当事者では無いが、LGBTなどの人々が社会的に不利な立場に置かれていると感じ、ホモフォビアやヘテロノーマティビティ(異性愛を標準と捉える価値観)に対する解消活動や異議の表明を行っている支援者。
社会学(の学び)をアウトプット
社会学ってめっちゃ面白いです。その面白さを広めたい。
たとえば、生きる上で「社会学的思考」がすごく役立ってます。
社会学的思考とは、
おおざっぱに言えば、何かを見たときに「その裏にある隠れた社会的なルール(規範)や、見えない社会的な力」を見出すような考え方。
たとえば「恋愛映画」を社会学的思考から考えてみましょう。
そうすると、
- 積極的なアプローチをかけるのは、男か女か。
- 登場する恋人関係は、異性愛カップルか。1対1か。
- 何が否定的・嘲笑的に描かれているか。それはどういう論理から否定・嘲笑されるのか。
というふうに色々な見方ができるのです。
この「社会学的思考」は、人を幸せにする力があるんじゃないかと思っています。
といっても、ぼくはまだまだ駆け出し×3の社会学徒なのですが……(笑)
あと、社会学(というかジェンダー・セクシュアリティ・フェミニズム?)を嗜むゲイという存在も、何かしら価値があるんじゃないかな、と考えています。
とくにゲイ研究って、アメリカに比べるとぜんぜん充実していません。
主な原因は、研究者におけるゲイ当事者の不足でしょう。
そこで、ぼくが気まぐれに(社会学的な?)ゲイの考察とか、海外のデータを紹介して興味をもってもらえたらいいなーなんて。
あとは自分の卒論(ゲイ研究)を発信できたら面白いのかなー、なんて思ったり。
このブログの限界——いくつかの注意
言い訳じみたことをいいますが、このブログにはさまざまな限界があります。
みんなすばるは、セクマイ(LGBT)代表ではない。
ぼくは1人のゲイでしかありません。
そのため、「セクシュアル・マイノリティ代表」みたいな立場は取れません。
だって、どちらも「男を好きになれる男」であるゲイ男性とバイセクシュアル男性の間にすら、違いがありますから。
たとえば、バイセクシュアルの人は「バイフォビア」(バイセクシュアルの人に向けられる差別)という、ゲイとは別の差別に遭うこともあるの(だそう)です。
こんなふうに、セクシュアリティの違いで全然違う経験をします。
誰かがLGBTを代表する、なんていうのは無理な話なのです。
みんなすばるは、ゲイ代表ではない。
また、ぼくは1人の人間でしかありません。
だから、ぼくがゲイ代表みたいな立場を取ることもありえません。
だって、ゲイという要素はじぶんのアイデンティティの一部ですから。
みなさんも、自分のセクシュアリティ以外の要素をたくさんもっていますよね。
そんなわけで、このブログは「こういう主張をするゲイの人もいるんだなあ」レベルで受け止めるのが吉です。
ぼくの考えを「ゲイは全員こう考えている!」と思わないでくださいね。
LGBTという言葉づかい
わかりやすさを重視すると、「セクシュアル・マイノリティ(セクマイ)」よりもよく知られている「LGBT」をどうしても使ってしまいます。
しかし、LGBTという呼び方には当事者の中でも反発があります。
ぼく自身、使うのに抵抗があります。
確かにLGBTは定義上「セクシュアル・マイノリティの総称」ではあるのですが、どうしても「レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーだけ」だと思われがちです。
これは、L/G/B/T以外のセクシュアリティを疎外している感があって気持ちよくありません。
それでもこのブログでは、わかりやすさ重視でLGBTを使ったりします。
ブログ名「ライ麦畑のがけ近く」の由来
アメリカの小説、『ライ麦畑でつかまえて』のなかに、次の有名な一節があります。
Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. (・・・) And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff (・・・) That’s all I do all day. I’d just be the catcher in the rye and all. (・・・)
とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが目に見えるんだよ。[・・・]で、僕があぶない崖のふちに立っているんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえてやることなんだ。(中略)一日じゅう、それだけやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういうものに僕はなりたいんだよ。[・・・]
日本語訳はホールデン・コールフィールドの名言集はこちら!より
この小説のなかで、崖が何を意味しているのかを語るのは野暮というものでしょう。
とにかく、ぼくはライ麦畑のがけ近くにいられたらな、という思いがあるのです。
まあ、そういうことです。
みんなすばるについて
ぼく(みんなすばる)については、別で記事を書きました!
そちらをご覧ください。
以上、みんなすばるでした。
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